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大内家の先祖1

大内家の先祖はたぶん百済からの亡命者とおもいます。

25代大内義長 ~1557 戦国時代。
大内氏当主。
左京大夫。幼名・塩乙丸。八郎。晴英。

父は大友義鑑で、大友義鎮(のちの宗麟)の弟に当たる。
母は大内義興の娘で義隆の姉と伝えられる。

天文12(1543)年頃に、実子のいなかった大内義隆から養嗣に迎えられ、義隆に家督相続を託す実子が誕生しなかった場合には、そのまま正式に大内氏の家督を相続させる旨を約束される。

さらに室町幕府十二代将軍である足利義晴から偏諱を受け、「周防介晴英」と名乗ったとされる。
しかし天文14(1545)年に義隆に嫡子・義尊が誕生する。
これにより晴英の立場は、先に大内氏の養嗣となったことで大友氏はもちろん、嫡子の誕生した大内氏からも家督相続対象から外れるという極めて不遇な状態に置かれることになる。

また天文19(1550)年には、弟・塩市丸の家督相続を狙う父・義鑑と、後継者に兄・義鎮を推す大友氏家臣の間で『二階崩の変』が勃発し、混乱の中で兄・義鎮が大友氏の家督を相続するなど、情勢は極めて混沌とするばかりであった。
大内氏でも文弱に流される義隆の姿に、危機感を募らせた陶隆房が軍事クーデターを決行。

天文20(1551)年、義隆は自刃に追い込まれ嫡子・義尊も殺害される。
このクーデター実行前に隆房から義鎮に対して予め了解と支持を求める旨の通知があり、同時に義隆の甥になる晴英に大内氏の家督を相続させる計画も伝えられたという。

中国地方への影響力拡大を目論む義鎮は隆房の計画を受諾。
こうして義隆の養嗣に立てられてから、ほぼ10年後の、天文21(1552)年にようやく晴英が大内氏当主に迎えられたのである。晴英を擁立した陶隆房は晴英から偏諱を受けて陶晴賢と名乗るようになる。こうして晴賢を側近として晴英は大内氏当主として国政を執る。
だが実態は「お飾り」に近いものであった。
しかしながら晴英は大内氏家督相続後には、隆房のクーデターにより混乱した領国内の安定の回復に苦心し、隆房や内藤隆世の補佐を受けながら大内氏の復興に尽力したものと思われる。

天文22(1552)年に晴英は「義長」と改名。
だが義隆が亡くなったことで、自由に動けるようになった毛利元就が自立を企図し、天文23(1554)年、義長自ら吉見正頼討伐のために津和野城攻略へ出陣中に、元就は叛乱を起こし大内氏側の城を次々と攻略し始める。

叛乱の大義は「晴賢による主君殺しの仇討ち」であり、義長を「偽主」として厳しく断罪するものであった。
この元就の動きに晴賢が応戦。 
弘治元(1555)年、安芸国厳島にて、毛利軍の奇襲攻撃の前に晴賢軍は壊滅を喫し晴賢も自刃する(『厳島合戦』)。 

晴賢亡き後、義長は、隆世を側近として用い、勢いに乗り侵略の手を伸ばす毛利軍への反撃を試みることになるが、晴賢が討たれたことで領内各地の国人層が次々と毛利氏に寝返り、苦戦を強いられる。
しかも元就が義長の兄・義鎮と結ぶに至り万策尽きてしまうことになる。(1557)年、圧倒的な勢いで周防国へ雪崩れ込む毛利軍の前に、山口を離れ隆世と共に要害である長門国且元城に篭城する。

長期戦になれば背後の尼子氏が動き出し、不利な状況になると見た元就は隆世の自害と引き換えに、義長の命を助け大友氏のもとへ無事に帰還させることを約束。隆世は大内氏の再興を願い、徹底抗戦を主張する義長を説得し、
篭城戦を中止し義長と共に長門国長福寺に入り自刃。 ~文学歴史の10~

これを見た元就は長福寺を軍勢で攻囲した上で、 最期の大内氏当主である義長にも自刃を強要し、義長は遂に自刃する。
ここに中国最大の覇者であった大内氏は滅亡するのである。

大内義長の生涯は、 自分ではどうしようもない「運命」というものに、抗いようもなくまさに翻弄され続けた生涯であったと言えよう。
大友氏と大内氏の間に揺れ、陶晴賢と毛利元就の間に揺れた。
また晴賢によるお飾り当主ではあったが、晴賢の死後、内藤隆世の補佐があったとは言え、
1年半に渡り領国を支え名門・大内氏当主としての面目を果たしている。

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