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大内家の先祖2

17代大内 義弘(おおうち よしひろ)
延文1年/正平11年(1356年) - 応永6年12月21日(1400年1月17日))は室町時代の守護大名である。大内弘世の子。子に大内持世、大内持盛。兄弟に大内満弘、大内盛見、大内弘茂。

父弘世の代に南朝方から室町幕府に帰順した周防(山口県)における有力な守護大名で、九州探題を務めていた今川貞世に協力して、九州における南朝の勢力追討に功績を挙げ、豊前の守護職を与えられた。
弘世が亡くなると、周防から石見、長門の守護職も兼任することとなり、1391年に山名氏の内紛からはじまる明徳の乱の鎮圧や1392年には南朝との仲介を行い南北朝合一にも尽力した。
これら一連の功績から、和泉と紀伊の守護職も与えられるとともに、中国の明王朝とも独自の貿易を行ない、瀬戸内海では細川氏と対立し、北九州から中国地方、さらに中央と勢力を大きく拡大していた。

有力守護大名の弱体化を図る足利義満は義弘を圧迫し、1399年上洛命令をするなど挑発をすると義弘は上洛を拒否し、鎌倉公方の足利満兼と通じて蜂起して応永の乱を起こす。
義満は禅僧の絶海中津を派遣して降伏を勧めるが義弘は5000の軍勢を率いて和泉の堺に籠城して満兼の援軍を待つが、義満が奉公衆を率いて火攻めをなどを行い義弘は畠山満家に討ち取られる。

義弘の死により、その後、大内氏は衰退した。また、義弘は歌道に優れ、『新後拾遺和歌集』という歌集を残しているという。

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